人生道中 
           02/1/13 京都新聞


 2002年が明けた。
 こどもの頃、二十一世紀はSFの世界だった。
雑誌には、空飛ぶ自動車や、携帯電話やテレビ電話、ロボットや宇宙旅行の絵が描かれていた。
現在は、その多くがあたりまえに存在している。
私たちはついにSFの世界を手に入れた。
だが食卓で、こどもたちが親の顔を見ない。
母親の手料理を食べてはいるが、ほおばった物が何かさえわかっていないように見える。
こどもの目は、テレビのバラエティ番組や携帯電話のメールに釘付けのままだ。
親は威儀を正しこどもに伝えるべきだ。
それは礼儀というより、人としての思いやりに欠ける行為であると。
 団塊の世代からこっち、親たちはどこか子育てを間違ってきたのではないか。
古い体質を壊し、新しい価値観を構築してきたその成果は認めるにしても。
ものいわぬ自然や、主張しない人間を踏み付けにして、高層ビルを建てたり便利な機械を作っても意味がない。
 戦後日本は経済優先主義(物欲至上主義)に走った。
だが、もともと私たち日本人は、物より心を大切にしてきた民族だ。
 心をあらわす言葉の数がそれを物語っている。
ざっと挙げても、心入れ、心砕(くだ)く、心様(こころざま)、心配り、心丈夫、心寒い、心障(ざわ)り、心染む、心ならず、心化粧(げしょう)、心頼み、心支度(じたく)、心失(う)す、心動く、心移り、心落ち、まだまだある。
 この新年、私は色紙に心二題をしたためた。

「心触れ、心趣(おもむ)け、心失(う)す、心繕(つくろ)い、心解(と)く、人生道中膝栗毛(ひざくりげ)」
というのは金釘流だが、その日思いついた心づくしの一題(膝栗毛は自らの膝を栗毛の馬の代用にして歩き続ける旅のこと)。

「心に殻(から)はない。世界はいつも、あなたに触れている」
 もう一題は、拙著からの抜粋。

はたして、心ほど不思議な存在はない。
加齢と豊かな心は比例しないし、貧富もさほど関係しない。お蚕ぐるみの心は打たれ弱いし、苛められ癒されなかった心は均衡を失う。
 究極、心とは、個人の内なる力に頼る部分が大きい。加えて、他者との幸運な出会いによって、深く傷ついた者が回復し、研ぎ澄まされてゆくこともある。
 傷つかぬ者、トラウマを持たぬ者はこの世に存在しない。
だれもが傷に耐えながら生きている。だからこそ、心延(ば)えが美しく強い人は、年齢如何を問わず人をひきつける。
自動車が飛ぼうが、宇宙へでかけようが、これだけは決して変わらない人の世の常である。

      (童話作家 越水利江子)