自他一身

            02・4・28 京都新聞
            越水利江子


 
春は、駆け足で過ぎるらしい。
 五月を迎える前に、ハナミズキ、つつじ、藤、やまぶきといった初夏の花々が一斉に花盛りを迎えた。
きらめく若葉、真っ青な空、咲き誇る花々、すべてが眩(めくら)むようで圧倒される。
いのちの息吹が燃え立つような季節。
 ふと、自分だけが、華やいだ景色から置き去りにされた気がするのは私だけだろうか。
 光の中で、つい立ちすくみ、これまで何度となく繰り返してきた問いが、胸にひたひたと澱(よどん)でくるのは、私だけなのだろうか。
(なぜ、生きている。このまま生きたとて、孤独が深まるばかりではないのか…)と。
 むろん、理性では、生きるとは生かされていることだと知っている。
人はみな誰かを支え、また支えられして生きていて、死もまた、そのバランスの中にあることも納得している。
人は生きたいからといって生きるのではなく、死にたくないといって、死なない訳にもいかない。
時がくれば、老いも若きも死を迎える。
そう認識していながらも、私にはふと葛藤が起きる。

 こんな時、私には思い出す人がいる。
その人は、禅宗の僧であり、花園大学の学長も務められた盛永宗興老師である。

「自分の目でよく見て、それから素直に受け入れなさい。自分の心で、素直に痛みや喜びを感じなさい。自分の言葉で、素直に表現しなさい。土足であなたに踏み入ってくる情報や知識を最も警戒しなさい」

 この言葉を贈ってくださった老師は七年前に遷化(せんげ)<この世の教化を終え他国土の教化へ移る意。高僧の死去をいう>され、もうお目にはかかれない。
だが、世の中の常識や、季節や時代のうねりに足をすくわれそうになる時、老師のこの言葉を思い出す。
そうすると、ひたひたと寄せていた正体のわからぬ恐れや迷いが、すうっと抜け出ていくような気がするのだ。

「御著、届いてすぐ一気に読みました。自分の子どもだった頃を思い出しました。おかげで、今日の予定が二時間くるいました。呵呵(かか)」と、大笑されるお声が聞こえるようなお便りは超多忙な学長時代に下さったもの。
ここには書けないが、私の元気の素なので、文面はすべて暗記している。
 自他一身。自分のためだけに生きたって、幸せにはなれない。
本当の喜びや満足は、他人との関係の中でしか生まれないと、その笑顔が光の中でおっしゃっているような気がする。
        (童話作家)