京都新聞2001・2・4

 
くつが鳴る


 水仙の花が盛りだという。
 ヒガンバナ科の多年草であるこの花は、地中海沿岸の生まれ。
はるかシルクロードを旅して、わが国に運ばれたらしい。
「まるで、真っ白なじゅうたんのようです!」
 先日、某テレビ局の女性リポーターが叫んでいた。 
 画面に映ったのは、淡路島の水仙郷。海辺の傾斜地に白い水仙が群生していたが、絨毯には見えない。線状の葉が叢生し、花の白を圧していた。
 かつて私が訪ねた折も、真昼間の水仙郷は、実に地味な花畑だった。だが、あたりが薄暮に沈むと、花々の白は匂い立つばかりに浮き上がってくる。幽玄の一瞬である。
 自らの感性を研ぎ澄ますことなく、使い古された表現に頼ると、花畑ならなんでも花の絨毯といってしまう。
 児童書の世界でも、そんな作品が少なからず存在する。
しかし一方で、研ぎ澄まされた作品も生まれている。
 ここに、二冊の本がある。
 一つは
『口で歩く』丘修三(小峰書店)。この本は、ずっと寝たきりのタチバナさんが主人公。
タチバナさんは自分では歩けないが、ベッド式車椅子で散歩するのが趣味。
 「すみませ−ん」と通りがかりの人にたのみ、相手のつごぅのいい所まで押してもらい、また次の人を待つ。つまり、口で歩く。すべての人をあるがまま受け入れ、温かい物語。
 もう一冊は
『くつが鳴る』手嶋洋美(BL出版)ニッサン童話と絵本のグランプリで最優秀賞を受賞、絵本となった。
主人公は、転ばずに10メートルも歩けない少女陽子。
この陽子が、お母さんの待つ桜の木まで歩くだけの話。
だが、心が晴れやかになる。
 二作の共通点は、物語に暗さや重さが塗りこめられていない点。
障害者の人生は常につらいに違いないという一方的な思いこみを、
小気味よく粉砕してくれるところ。
 金棒のついた陽子の靴はコキュコキュと鳴る。その音は新しい感性の音である。