水の月
       
02年6月2日 京都新聞                越水利江子


 子どもの頃、六月を水無月というのが不思議だった。
水がないどころか、梅雨で雨ばっかりやないのと。
そんな時、知人の誰だったかが、こういった。
「水が無いのは天の方や。地上に雨ばっかり降らすんで、天に雨が無うなるから、水無月っちゅうんや」
 これを聞いて、子どもの私はすっかり感心してしまった。
「昔の人はかしこいなあ。そんで、水無月か。なるほど」と。
 陰暦では季節がずれるが、真偽のほどはいまだ知らない。
だが、あきらかなところは、古くは清音のみなつき。
田に水を入れる月という意味の「水の月」からきている。
山紫水明の土地、四季と共に生きる農耕民族でなければ生まれ得ない言葉だ。
そう考えると、現代の都会の言葉はどうも殺伐としている。
色艶、匂い、温度や触感が薄い。
なぜか。思い当たることは幾つかある。
画一的な労働。人工的な環境。教育の在り方。原因は様々あろうが、一番大きいのは言葉ではなかろうか。
テレビによる標準語や東京ふう言語の氾濫。
これが、現代の言葉の底を浅くしている。
 この国には、雪国もあれば常夏の地もある。その地その地の会話にとけこみ、豊潤に発酵した旨酒のような方言がある。
 どれほどの歴史や文化がこの旨酒にとけこんでいるかを思えば、小説やドラマにもっと方言が出てきていい。

 あそこまで行げば/この悲しみは/無くなるべど/そんだがら/泣きづめ垂らしながら/おら、たどりついだのす//ほんだども/次の悲しみが/そこで待ってらった/後がら後がら/切れ間無ぐ/大きい悲しみも/とるに足りなねぇ様な/小さな悲しみも/終わりが無ぇくれえ/押し寄せでくるんだ//それはそなんだ/だって/悲しみを見つける力を/おら、持って生まれだんだ/裏返せば/すんげ力だべ/この力は//後略
(土本桐詩方言詩「涙」)

 いかがだろう。
方言の温かさ、秘められた力を感じないか。
この詩は限定30のコピー詩集に掲載された作品である。
 童話では
『どんぐり屋』鳥野美知子(新日本出版社)の一節。

「きょうは、田の仕事の終わった田の神さんを、山の神(やまかか)さんがお迎えする大切な日だからな。きょうは、雪が降るぞ。田の神さんの足跡かくしの雪といってな」

 いかがか。瞬時にこの国の風土が立ち上がってこないか。
 標準語の世界、しゃれた都会小説や翻訳小説には、この醍醐味はない。

        (童話作家)