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「天上の青」 
                  越水利江子


人生には、そこはかとない寂寥感に押し包まれる一瞬があるものだ。
なぜか、それは雨の日や曇りの日より、青空の日に多い。
何年か前、私は、抜けるような青空を見上げながら、「ああ、この広い青空の下にひとりぼっちなのだ」と、胸の中をひきしぼられるような孤独を感じた。
その時の空の輝き、眩しさ、風の音、木々のさやぎ、空気の匂い、木漏れ日のきらめき、すべてをはっきりと思い出せる。
そんなことは、それ一度きりではない。
子どもの頃にもあった。
かくれんぼの時、狭い路地の隙間からのぞく、切り取られたような青空を見上げてそう感じた。
遊び友達がいない昼、東福寺のお山に登って、草むらに寝転びながら、果てしなく広い空と、ちっぽけな自分の存在をしみじみと感じたこともある。
子どもの頃の心は、大人のように妙な鎧をつけていないので、感じ方もストレートで激しかった。
大きくなるにつけ、その回数や激しさは減っていったが、孤独の穴は、どんどん深くなるような気がする。
それが、生きることといえば言えようか。
ゆえに、人生には酒がある・・・という結論は、少々乱暴だろうか。
いや、多くの酒呑みが同意してくれるだろう。
酒呑みとは、寂しがりやである。

先日、ある船上で、私はやっぱり青空の下にいた。
その日は、朝から曇り空で、船に乗るまで、青空は見えなかった。
クルージングが始まって、ふと日差しを感じ、空を見上げると,、なんと、その船の上だけがまーるく青空になっていた。
まるで、大きなボールでも投げ入れたように、薄曇りの空に青い穴が開いていたのだ。
あんな不思議な空は、初めて見た。
青空がまるく広がって、船上の私たちのひとときを愛でてくれていると感じたのは間違いだろうか。
人生の多くは薄曇リ、時には雨の日や、日照りの日や、嵐の日だってある。
青空の下にいられるひとときは、愛でられて在る一瞬ではないかと、ふと思う。
一瞬だからこそ、哀しみも一層深くなる。
そういうことではないだろうか。
こういう船に乗り合わせた男は、家へ帰って、静かに酒を呑むのだろうか。
それとも、プロ野球など見て、お茶をにごすのだろうか。
家族と、しっとり話すのだろうか。
そんなことも、思ったりした。
え? わたし?
私はもちろん、しっとり物思いにふけりましたとも。
野球も見ず、酒も呑まず、ただ、しっとりと・・・
誰ですか。 
「うそこけ」なんていってるの。
こら、こら、こら、こら・・・「一升は空けたな」は言い過ぎでしょ。
そこのひと。
酒は、たしなむためにあるのです。
よって、我が家には一升瓶はありません。
四合瓶しか買い置きしないのです。
だれですか。
いいわけがましいなんて、いうてるのは・・・?