つれづれ日記からの抜粋

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書くことの意味              
あるきっかけがあって、書くことの意味を考えました。
作品とは何か、出版する意義と何か…と。
そのことを、心覚えに、ここへ残しておきます。

不況とはいえ、毎日、たくさんの本が出版されています。
プロが読めばあきれるような稚拙な作品がベストセラーになることもあれば、素晴らしい重厚な作品が初版だけで消えていくこともあります。
あきらかに、売れる売れないだけで、書く意味を問うことはできません。
一方で、大衆受けする小説(文学とは言い難くても)が、純文学作品より劣っているとは、私は思いません。
反対に、どの作品にもある意味のエンターテーメント性が不可欠であるという、売れっ子作家さんのご意見にも賛成しかねます。
ごつごつぶつかりながら読んでも、読み終えた時、世界が開いたような気がする文学は数多くあるからです。
さまざまな価値観の本があっていいし、それは究極、私個人の価値観と一致しなくてもいいとも思っています。
そういう意味では、本を書こうとする人の心意気こそを買いたいと思っているのです。

ただし、その中にも、やはり、これだけは買えない、応援できない、いやもっといえば、傷つけ合うことになっても対峙しなければならないと思う本はあります。
大きな社会的テーマが私自身の目指すものと対立する場合においてです。
戦争賛美の作品や、命の重さを踏みにじる作品に向かっては、たとえそれがベストセラーだったとしても、私は書き手である以上、その作者と戦わざるを得ないのです。
そういう作者とは、書くことで、人生も命もかけて戦うつもりです。
その事を除けば、重厚な深い作品も、軽やかで面白い作品も、読みたい読者がいるならば、それは書かれねばならないし、一人の作家が両方書かねばならないことも多いと思っています。
一部の評論家さんのように、その一作一作にないものねだりをされては、書き手は何も書けなくなります。物語はそこに展開される世界を楽しんで貰うものです。
すべてがとりそろった作品はこの世に存在しません。
本は完璧だから価値があるのではないのです。
読み手がいて、読み手が本を読んで、楽しんだり癒されたりしてくれれば、それが大きな価値なのだと私は思っています。
私は文章が上手ければいいとも思いませんし、テーマさえ良ければいいとも思いません。
文学作品のみが価値があるとも思いませんし、エンターテーメント性がなければいけないとも思いません。
作品にはそれぞれ、独立した場があるのです。
その作品が存在できる場を確保できるかどうか、それがプロの関門です。
そこを誰もが目指すのです。
私はデビュー以来、ずっとそれを目指しているような気がします。