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騎士の気概
                越水利江子 


 
なぜ、生きるのか。
 幼い頃から問い続けてきたように思う。
 確かな答えは、まだ得られない。多分、生涯つかめないのかも知れないそんなものだと、思うようにもなってきた。
 知人に、京の古刹法然院の貫主、梶田さんという方がいる。
この梶田さんが、数年前、あるシンポジウムで「一人くらい子どもが死んでも、百人の子どもが川へ入って遊べる方がいいのではないか」と発言されたことがある。
 ところが、この催しを報じた新聞紙面では「一人くらい子どもがけがをしても…」に、直されていたそうだ。
それについて、梶田さんはこう問いかけていらっしゃる。
「一人も死なないようにするのが『いのちを大切にする』ことなのでしょうか。
それとも、少々はリスクを伴ってもすべての子どもが川に入って遊べる社会が『いのちを大切にしている社会』なのでしょうか」と。
 一人一人の命は、とても重い。
たった一人でも、おろそかにはできないことはいうまでもない。
けれども、だからといって、少しでも危険なものは徹底的に排除するというやり方正しいとは、私自身、思えないでいる。
 だいたい、たった一人の子どもも死ぬ事がない社会などあるのだろうか。
あったとしたら、それは、子どもたちの身体は生かしても、
心は殺してしまうような超管理社会になってしまわないか。
少なくとも、私は、私の子どもたちをそんな社会に生きさせたくはないし、私自身も生きたくはない。
 生きる意味というものを考えたとき、ことにそう思う。
 生きるということは、生かされていることだ。
自分一人で生きているわけではない。
 人はだれも、だれかを支え、また支えられして生きている。
私は、死もまた、そのバランスの中にあると思う。
 人は生きたいからといって生きるのではなく、死にたくないといって、死なないわけにもいかない。時がくれば、老いも若きも死を迎える。
 それならば、幸運に生かされている今、何をすべきなのか。
 限りない欲望を突き詰めていったら、私は、たった二つだけ願いが残った。
「どんな生き方でもいい、人の役に立つ人生を生きたい」
「愛する人間を、生涯、おだやかな心でまもりぬきたい」
 この二つが、現在の私の生きる目標でもある。
 自分のためだけに生きたって、得るものは知れている。
本当の喜びや満足は、他人との関係の中でしか生まれない。
 かといって、私には、みんなの中心でいたいとか、
お姫さまのようにだれかに守られたいという気持ちは全くない。
 どちらかといえば、いっそ守りたい。
 姫より騎士でありたい。そんなことを思っているから、私は孤高の人にもなれない。
 こういう私は、結局、知らないところで、
いろんな人に守られて生きているのかも知れない。
 いや、まさにそうだろう。
 弱虫泣き虫怒り虫では、だれはばからない一等賞人間だもの。
 だが、人間、こころざしである。
 騎士の気概。
 言葉にすると仰々しいが、これは、いわば心意気である。
 生は、他者のためにある。
 命全体の輪を見れば一目瞭然の仕組みである。