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人生は甲子園
                                   越水利江子


「旅路の果て」という映画があったような気がしますが本当でしょうか。
洋画ではなかったかと思うのですが、これも気のせいかも知れません。
最近、自分の人生がそんな感じがしてしようがないのです。
今、まさに旅路の果てに立っているというか、歩いて歩いて来て、もう歩きたくない、どこかで休みたいと、泣きたい思いで願っているのに、目の前にはまだ果てしなく茫漠とした大地が拡がっているだけ・・・といった風景が目に浮かんできてしまうのです。
むろん、もっと年長の方から言わせれば「まだまだ」とか「まだ若い、まだ青い」とかいわれるに違いないことはきちんと感じながらですが。
けれども、その中でも、若い時とは違う居直りというか、落ち着きというか、そういったものはいつの間にか手に入れました。
一つに、日々の葛藤はありますが、根源的な愛や、仕事や、生き方については悩まなくなったのです。
こどもに対する愛も、伴侶に対する愛も、愛はただ愛するだけですし、愛した人が去ったとしても、それで、自分が不幸になるわけではないと思うようになりました。私が不幸になるのは、愛する者を充分愛せないまま、死なせてしまったときだけだと思っています。
言葉を変えれば、
愛は、ただ相手を理解し思いやることだけですし、その人がその人自身の意志で去るなら、それで、私が不幸になるわけではありません。私が不幸になるのは、思いやるべき相手を、充分に思いやることができないまま、死なせてしまったときだけだと思っています。
精一杯、理解しようとした思いやりの中で、その人が去るなら、それはもうしょうがない。
その時は、私はその人より、より遠くに、もう、その人の目も心も届かない場所へ消える覚悟はできています。
具体的に、私の個人的な人間関係がそういう事態になっているということでは、決してありません。常にそういう覚悟を持って生きているというだけです。
仕事においてもそうです。
精一杯の思いやりと誠実で書いて、それでだめなら仕方ない。
生き方も同じです。
人との関係においても、仕事においても、生き方においても、自分より他者への思いやりを忘れず、心を尽くせばそれでいいと信じて生きています。(人間はもともと利己的ですから、それくらいでちょうどです)
そうすれば、たとえ何かを失っても、本当に大切なものを喪失するのは、少なくとも精一杯思いを尽くした方の人間ではないように思います。
といっても、自分のために精一杯やったというのは、ちょっと違うかも知れません。他者の心をどれほど大切に考えたかということのように思います。(そのつもりでも失敗はあるのですけどね。でも、それは、神さまじゃないから仕方ない)
しかし、そんなことを常々考えていたりするから、人生途中で、旅路の果てのような気がするのかも知れません。(もっと気楽になれんのか、という声がどこぞから聞こえます)
でも、人生はいわば甲子園です。
負けて負けて負けて負けて、もういやだというのに、また負けて、もうあかんと思ったら、嘘みたいに勝って、これからも勝てるかもと思えば、また負けて負けて負け続けて・・・でも、辛いばかりかといえば、楽しくて嬉しいこともあって、死ぬまで最下位かと思えば、ひょんなことから優勝したり、そのたんび、落ち込んだり歓喜したりしても、そのことで勝てるわけでもない甲子園。
これぞ、我が人生。
ドンマイ、ドンマイ。
そのうち、いい風も吹くさってね。
そういや「愛は勝つのよ」って、ある女性童話作家さんがいいました。
「いいえ、違います」と、私はいいました。
「愛は負け続けることです」と。
負けていますとも、今もずっ〜と。